園長先生のコラム

♪ コラム 【 2012年10月号 】 成 長

9月の「お芋ほり」と「遠足」が終わると、10月の園行事の華は「うんどうかい」といえるでしょう。
「遠足」のとき自分のお弁当を出して、美味しくいただきまた自分で片づける子どもたちを見ていると涙が出てくるほど愛おしく思えてきました。
それぞれの子どもたちが「こんなにできるようになったのだ」とその成長ぶりに嬉しくなってきたのです。

昔から、幼稚園や学校では「うんどうかい」にはおめでたいときに使う紅白饅頭を配給することがあります。
それは、おそらく子どもたちの成長をある意味において、喜び感謝する幼稚園や学校側のうれしい心の表れと言えるのではないでしょうか。

先日、久しぶりに年老いた大阪に住む叔父、叔母に会える機会がありました。
ずいぶんと長い間ゆっくり話をすることもなく過ごしてきたのですが、会って話をすれば、半世紀も前の話に花を咲かせることができました。
会話中、僕は子ども時代に戻っていました。人は過去を振り返ったときはじめて自分の成長を確認し、また過去の未熟さを恥じ入ることができるのだと今更ながら感じました。

幼稚園の年少の時、毎朝、父が僕を母の実家に連れてゆき母の妹である叔母が幼稚園の送迎と夕方、父が迎えに来てくれるまで面倒見てくれていました。
年中のある日、叔母はまっ白いウエディングドレスに包まれ大阪にいた父の弟に嫁いでいきました。(父の弟に嫁いだ母の妹なのです。ダブルで叔父、叔母ということ)
不思議な思いを持っていました。多くの親戚がいる中で特別に僕を可愛がってくれた叔母でした。
話を聞いているうちにいろんなことが分かってきました。
たとへば、子ども心に「自分がとても愛されている」ということを知っていたということなどです。
子どもは「成長」するものです。もちろん成長させるのは、神さまであって人間ではありません。
しかし人間は人を愛することができます。
そして「愛すること」なくして「成長」は無いと思うのです。

「愛されている」と感じた子どもは安心して毎日を送れます。そして人を「愛する」ことができます。
僕の育った環境は普通の家庭とは少し違った生活環境(政界や財界に直接間接的つながったややこしい環境)でした。
でもそのような環境の中でも僕を愛してくれた多くの家族や人びとが居ました。
そして、成長した僕は神さまと人を愛することを目標に生きる道を選びました。
成長させてくれた神さまに、そして愛してくれた人々に心から感謝しています。

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・・ 聖句と今月のみことば ・・

「種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」

新共同訳 マルコによる福音書4章27節

この聖句はマルコによる福音書にしかない特別な譬え話です。
短い話なのですがまぎれもない真理を含んでいると言えます。
第1に人間の無力について語ります。つまり人が種を成長させるのでない。つまるところ人は成長というものを理解できていないわけです。生命の神秘を知る者もなく、生命を創造した人もいないのです。
第2に神の国について語っています。自然の成長を感知することができない。しかしながら自然の成長は不断といえるのです。一方、自然の成長は当然とも言えるのです。
第3に私たちはそこに、達成のあることを知ります。種は収穫の時を迎えます。そのとき、2つに分けられます。良き果実は収穫され、雑草や毒麦はすてられるのです。
そこで、私たちは3つを知ります。忍耐と希望、そして準備です。つまり、終わりの日までに文字通り、破られることのない忍耐の中に、失望することのない希望の中に、永遠の光の中で人生をいつも見ている準備の中に生きるならば、私たちは神さまの恵みによって良き果実となりえるでしょう。

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