神学校を卒業して牧師になり43回目の復活日(イースター)を迎えました。
今年のイースターは4月9日でした。教会のイースターはどんな意味があるのでしょうか。今一度考えてみたいと思います。
当たり前のことなのですがそれはイエスさまが本当に神の子であったことなのです。
人間にとって一番恐ろしいもののひとつ。それは死という現実でしょう。自分の愛する人や親しい人の死による別れも恐ろしいものです。仏教でいう四苦八苦のうちでも人生で最も苦しいのが愛別離苦(愛する人との別れ)と言われます。そしてまた自分の死というのも恐ろしいものです。
しかしその一番恐ろしい死でさも、もう恐れることはないというのです。それは、イエスさまが死んでご復活されたからです。そしてそのイエスさまの約束によって、イエスさまを信じるすべて人間も、神さまと共に、永遠の命に変えられるというのです。その希望が与えられたというのがイースターの意味なのです。そのイエスさまは今も私たちと共に生きておられるということです。そして、人間は決して一人捨て置かれることはないという約束です。そして、人間は決して一人ぼっちに捨て置かれることはないという約束です。さらにキリスト教の中心は、そのイエスさまが人間でなく、神の子であるということです。そのため私たちは、人間イエスさまが、恐ろしい人間の制約である死を乗り越えた、このご復活という出来事にいつも立ち戻らなければなりません。イエスさまのご復活があるから、私たちはもう死を恐れなくていいのです。
とはいえこの世にはさまざまな不幸があります。
正しいことをした人がそのために、まったく罪のない人が不当な苦しみを受け、場合によっては命を奪われることがあります。そのような不合理なことと思われることがたくさんあります。キリスト教信者が特別神さまに守られ、不幸もなく、いつもこの世的な幸福に恵まれるかというとそんなこともありません。
罪がなく、人々の救いのためにのみ働いたイエスさまがご復活することによって、その不合理や不条理、不当性、意味のなさが打ち破られるわけです。希望が与えられます。生きること、死ぬことの意義がそこで見直されます。私たちは何のために生まれそして生き、何のために死ぬのか、その価値観が変わるのです。
だからこそイエスさまのご復活は、キリスト教信徒の生き方の中心となります。でもだからこそ、キリスト者はいつもこのイエスさまのご復活の出来事と戦い続けることにもなります。
2000年前ユダヤの地で何が起こったのか知りたいと思うようになります。確かなことは、聖書に記された出来事、復活を体験した弟子たちの生き方・死に方ではないでしょうか。イエスさまの十字架の出来事で卑怯にも逃げ去った弟子たちが復活の出来事の後、殉教してまで証言するように変わったという事実は何を意味しているのでしょうか。