「どうしてこの世には、理不尽なことばかり起こるのだろうか、本当に神さまが存在しているのだったら悪い者を懲らしめ、良い者で満たしてくれたらいいのに」
「私たちは神さまのみ旨(ご意志)、なさることが分からないから苦しむのかもしれない」
と先月の園長のコラムで書かせていただきました。
先日の西日本豪雨災害でまた多くの尊い人命が失われました。
大きな災害が起きたり、近しい方が悲惨な目にあったり、亡くなったりすると、私たちはよく「神さまは本当にいらっしゃるのだろうか」と思ってしまうものです。
現に高校時代のある友人がショートメールを送ってきました。
「また多くの方々の人命が失われたこと、残念です」
「君に聞きたい。神や仏はあるのですか?」
本当に厳しい質問です。僕が牧師になったことを知った上での質問でした。自問してしまうような誘惑と偽善、傲慢や不信仰に苛まれそうです。
でも、敢えて勇気を出し決断して言うならば「確かに神も仏もあるものか」と思えるような絶望の淵に立った時、いや、その時にこそ「神さまには何か深いご計画があるはずで、今の自分には理解することが出来ないだけなのだ」との希望に生きることこそが信仰なのではないだろうかと思うのです。
大自然の猛威にあっては人力の非力を思い知らされるばかりであるのは、昔も今も変わらないと思います。勿論、科学技術の発展によって予報や災害予測、備えは確実に向上しているのも事実です。技術や知識向上も大切なことでしょう。
でもまた人間にとって大切なことは、自然に対し謙虚な姿勢で臨み、他者への思いやりや協力、援助することなどが考えられます。
自然の猛威に神さまの怒りだけを見るのではなく、災害時の人々の助け合う愛の行動に、神さまの愛の業を見たいものだと思います。
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・・ 年主題聖句 ・・
「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」
~ ヨハネの手紙Ⅰ 4章11節 ~
聖書の愛という言葉には2種類あります。「神の愛」「人間の愛」前者はアガペー(ギリシャ語)、後者をエロス(ギリシャ語)神の愛は見返りを求めない、只々一方的に与え続ける愛を指します。後者の人間の愛も決して悪い愛ではないのですが、見返りを求めてしまう人間らしさを持った愛です。だから失恋したときなど心に痛手を受けますよね。神の愛は人間の中にも存在します。わが子を思う親の愛などは見返りを求めていません。愛された子どもは人を愛することができます。私たち人間はすでに神さまから愛されているのですから、互いに愛し合うことができるはず、とヨハネは言っているのです。
・・ 聖句と今月のみことば ・・
「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
~ マルコによる福音書19章6節 ~
イエスさまと弟子たちが共に船旅をしている最中、嵐に遭いました。イエスさまは騒々しい嵐のまっただ中でも、静けさを守っていました。けれども、弟子たちはイエスさまを頼っていませんでした。漁師であった彼らは、船のことは自分の専門と思い込んで、自分たちで何とかできる、しなければならないと思っていました。そして結局は、どうにもならなくなったのです。そもそも弟子たちのこの旅は、イエスさまが誘って始めた旅でした。そのイエスさまが、現に同じ船に乗っているのです。弟子たちは、自分たちが見捨てられたように思い、本当に怖くなってきました。神さまこそが、すべてを始め、治めてくださる方です。そして、イエスさまは実際に同じ船に乗っているのです。もう自分だけで何とかしようと、心配することはないのです。荒波にあるとき、自分で何とかしようとせず、ここにいるイエスさまに真剣に助けを求めるべきです。波乱の人生、嵐に巻き込まれたまま捨て置くわけがありません。必ず、ご自身の静けさ・平和の中に引き込んで下さいます。