小学生の時、僕の勉強部屋は小鳥たちの部屋でした。
「ジュウシマツ」「文鳥」「カナリヤ」等、リンゴ箱(当時リンゴは木箱に入ってました)を材料に、自分で作った小鳥たちのアパートが部屋の壁に積み上げられていました。朝と夕、「アワ」や「ヒエ」の餌をやり、また水を替えてあげるのが日課でした。朝枕もとで、小鳥たちのさえずりが僕の目覚まし時計でした。中でもジュウシマツは卵を産み、たくさん増えていったので友達にあげたのを覚えています。
中学生になってからは天文学や地質学、気象学に興味が移って小鳥も少なくなり、鳴き声が美しいカナリヤだけになりました。
ところがある日、近所の悪い飼い猫が家に忍び込み、大切なカナリヤが殺されてしまったのです。それ以降、小鳥を飼うのをやめました。
小さな命を守れなかった悔しさと、後悔が理由です。
和歌山の幼稚園での園長時代に、園で飼っていた小鳥たちが大量に死んでしまった事故がありました。飼育当番の先生が餌をあげるのを忘れたのです。先生は責任を感じて、鳥かごの陰で泣いていました。僕はそのとき本当に大切なことを神さまが教えてくれたのだと思いました。
鳥たちは空を飛ぶために、できるだけ体は軽くつくられています。骨の構造も哺乳類とは違っています。直腸などはなく、糞は消化が終われば所かまわず落下してきます。車の上や自分に落ちてきた経験がおありかと思います。ですから、短距離しか飛ばない小鳥(しかも植物しか食べない小鳥)たちは、たった一日分の餌にありつけないと死んでしまうのが当たり前なのです。
今月の「聖句」で『空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。』という意味がだんだん理解できるようになってきました。
マタイによる福音書の6章26節以下は、このように続きます。
「あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。」何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
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・・ 年主題聖句 ・・
「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」
~ ヨハネの手紙Ⅰ 4章11節 ~
聖書の愛という言葉には2種類あります。「神の愛」「人間の愛」前者はアガペー(ギリシャ語)、後者をエロス(ギリシャ語)神の愛は見返りを求めない、只々一方的に与え続ける愛を指します。後者の人間の愛も決して悪い愛ではないのですが、見返りを求めてしまう人間らしさを持った愛です。だから失恋したときなど心に痛手を受けますよね。神の愛は人間の中にも存在します。わが子を思う親の愛などは見返りを求めていません。愛された子どもは人を愛することができます。私たち人間はすでに神さまから愛されているのですから、互いに愛し合うことができるはず、とヨハネは言っているのです。
・・ 聖句と今月のみことば ・・
「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。」
~ マタイによる福音書6章26節 ~
有名なイエスさまの「山上の説教」の聖句です。私たちは日常に追われるあまり、神さまに守られ生かされていることに気づかずに、つい思い煩ってしまします。バリバリ働いているときは自分が頼もしく、また家族からも頼りにされていますから、自分が頑張ればいいのだと錯覚しがちです。でも本当は、神さまのお守りとお恵みなしには一日として生きていけないことを覚えたいものです。