6月に入るといつも思うことがあります。
それは、8月の終戦記念日と同じように「沖縄慰霊の日」のことです。
70年前太平洋戦争も末期の頃、沖縄では沖縄守備隊のみならず日本国内で住民をまきこんだ唯一の激烈な地上戦が展開されました。
沖縄戦は,大本営にとっては当初から(捨て石作戦)であり、日本本土防衛の準備(とはいっても特に勝てる採算はなかった)が完了するまでの単なる時間稼ぎの展望のない絶望的な戦いといえました。本土決戦に備えての兵力温存方針の下で、兵力を現地で調達する「自給総動員体制」の戦いでありました。沖縄住民を法的な根拠もなく防衛隊員,学徒隊員に徴用,女性や学校の生徒にも勤労奉仕隊などに動員し、国民学校(今の小学校)の児童までも土石運びに駆り出された住民総力戦であったようです。
住民は「軍民共生・共死」をスローガンにがんばろうとしたのですが、実際には軍人の多くが沖縄以外の出身であったので住民を守るどころか住民を盾にするような戦い、戦うことが可能なすべての住民が動員された戦いであったといえるのではないでしょうか。さらには日本軍によって多くの沖縄住民がスパイ容疑をかけられ殺害されたと聞きます。なぜでしょう、それは沖縄に対する蔑視思想があって「米軍にやられるより先に,島民にやられてしまう。」と考えたのでしょうか。また、各島で住民の集団自決を強要した可能性があることが近頃問題になっています。「生きて虜囚の辱めを受けるなかれ」の思想教育であったのでしょうか。
遠い昔、不安定要素が起こったとき神さまご自身が希望して贈り物と平和が与えられたといわれます。そのような平和的状況をユートピアと呼んでいます。
でもこの言葉の意味は「どこにもない」という意味なのです。
ドイツ語の平和フリーデンという語は、自由フライの意味を含んでいます。
人々に自由のない力づくの平和など平和に値しないと思います。
本当の平和は、人間性と自由が保障された平和であることが必須条件と思います。
そして平和・フリーデンも自由フライも語源は同じリーベン「愛する」からきています。平和が共に赦しあい和解したときユートピア的に平和が実現してゆくものなのでしょう。
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・・ 聖句と今月のみことば ・・
「実に、キリストはわたしたちの平和であります。」
~新共同訳聖書 エフェソの信徒への手紙2章14節~
エフェソの信徒への手紙の2章11節~22節のテーマは「キリストにおいて1つとなる」と言うことだと思います。それはそれぞれの国々の人びとがどこかの国に取り込まれて1つになるのでなく、キリスト者として1つとなると言う意味なのです。力によって1つとなるのでなくキリストの愛によっての1つとなるのです。ですからキリストはわたしたちの平和なのです。