園長先生のコラム

♪ コラム 【 2015年2月号 】 「 主よ、お話しください。僕(しもべ)は聞いております 」

ダビデに油を注ぐ大預言者サムエルのイメージではなく、かわいらしい天使のように、お祈りするサムエルの姿がとても好きです。今も、幼稚園玄関の壁に飾っています。
この言葉はサムエルの師匠エリから教えられた「祈りの言葉」です。
祈りには、2通りあると思います。
ひとつは、「主よ、お聞きください。僕(しもべ)は話します」です。
もうひとつは「主よ、お話しください。僕(しもべ)は聞いております」と言えます。
「話す」主格が人間にあるか、神さまにあるかの違いでしょう。

昔、隣の家に振興宗教の方が住んでいまして、毎朝熱心なお祈りが聞こえていました。
「どうぞ、私ども家内が安全で、商売が繁盛し、健康で長生き、また、長男の○○が○○できますように、長女の○○云々・・」と願い事が延々と続くのです。
これには、神さまも覚えきるには大変だろうと当時家内と笑ったものです。

このことだけはと、どうしても神仏に願い事を叶えてもらいたいとき昔から神社仏閣に「お百度参り」という参拝方法があります。
いわば「主よ、お聞きください。僕(しもべ)は話します」を百回もするのです。
気持ちは良く分かるのですが、イエスさまはそのようなお祈りの仕方は間違っていると戒められています。
山上の説教の中で「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。」(マタイ6:7)と言われています。
イエスさまのみ言葉によると、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(同6:8)というものです。
私たちはもはや「聞き入れられる」ことを願う必要があるでしょうか?
なぜならすでに必要なものは聞き入れられているからです。祈りは「主よ、お話しください。僕(しもべ)は聞いております」という「話す」主格が神さまの祈りでありたいものです。

どんなに泣いている子どもも母の腕の中ではだんだん心が静まっていきます。
私たちを取り巻く環境は、多くの矛盾や不条理が横行しています。
私たちはその中でキリスト教徒として誠実に生きることに悩み苦しんでいる現実があります。だからこそ、母の腕の中で子守歌を聴くように神さまの語りかけを聴(耳へんに十四の心)いて希望と力を与えられ生きていくべきと思うのです。
祈りとはまさに激動の世の中で神さまの福音の証人として生きようと願う者が耳を傾け神さまのみ声を聴くときのことではないでしょうか。
そしてそれが、迫りくる未来に対する進行的決断となってゆくものなのではないでしょうか。

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・・ 聖句と今月のみことば ・・

「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。」
~コリントの信徒への手紙Ⅰ12章31節~

私たちは、自分の才能、能力、或いは実力をさも自分が始めから持っているもの、自分が努力して得たものと信じていることが多いものです。しかし果たしてそうでしょうか。
パウロは人のすべて才能や知識、あるいは技能すべてが神さまからの贈り物、つまり賜物だというのです。ですから、もっともっと能力を高めるためにはもっと神さまにお願いして大きな「賜物」を受けることができるように努力しましょうというのです。

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