園長先生のコラム

♪ コラム 【 2014年5月号 】 「 イエスさまの友になりたい 」

わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。
これがわたしの掟である。
友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。
僕は主人が何をしているか知らないからである。
わたしはあなたがたを友と呼ぶ。
父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。

ヨハネによる福音書15章

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キリスト教の信仰の特徴のひとつに、「神さまと人間の関係」にあると思います。
人間は生きている間、どんなに人間世界で出世して社会的に偉人となっても神さまから見れば所詮僕(しもべ)にすぎず主従の関係です。
生きていても死んだあとでもそれは変わりません。
仏教でしたら死ねば人間は仏様になれるみたいですね。成仏するというのですからね。
僕(しもべ)ギリシャ語で言えばドゥーロスといい最下級の人間を指します。
少なくとも自由人ではありません。主人に仕えている人と言う意味です。
ところが、イエスさまは私たちにその僕(しもべ)とは呼ばないとおっしゃったのです。イエスさまの命じること「命をも捨てるような、愛し方で互いに愛したならば」「わたしの友となります」といわれたのです。
現に、イエスさまは私たち人間が神さまの望まれる生き方から大きく外れ、「自己中心的生き方」をして罪を重ねることを贖うため、自ら十字架の死を選ばれました。
そのことによって、私たちは自分の力では贖うことのできないような罪深い中にあっても神さまに赦されたものとなったのです。
さらに神さまの僕(しもべ)から他人のために命を投げ出すような愛を持てばイエスさま(神さま)の友人になれるというのです。
とってもすてきなことなのですが、またとっても勇気のいることです。

韓国の「フェリー事故」のことが連日のように報道されています。
たくさんの高校生が修学旅行で遭遇してしまった悲しい事故です。
「命を投げ出してでも救い出すぞ」というような信仰や信念、責任感をもった船長や乗組員がいなかったことが悔やまれてなりません。
過去の多くの海難事故やその他の事故災害の際に自分の命を投げ出して、「イエスさまの友」となっていった多くの人たちがいました。
すべての犠牲的愛で自分の命を捧げていった人々の魂の平安を祈ります。

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・・ 聖句と今月のみことば ・・

「主は倒れようとする人をひとりひとり支え/うずくまっている人を起こしてくださいます。」
新共同訳 詩篇145篇14節

今日の詩篇は主にバビロン捕囚から解放後、イスラエルに帰ったユダヤ人たちによって再建されたエルサレムの第2神殿の礼拝においてよく読まれていたようです。
祖国を失って数百年彼らユダヤ人たちはメシアの誕生をまちこがれ神さまは決して自分たちを見捨てないと信じていたのでした。

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