「 これらの小さい者にしてくれたことは実はわたしにしてくれたことです。 」
マタイによる福音書第26章40節
クリスマスのページェント(聖劇)の登場する3人の博士(賢人)は、子どもたちにはとても人気のある人物なのです。
ガスパル、メルキオール、パルサザールの3人はユダヤから遥か東方の地からキャラバン(隊商)を作ってはるばる砂漠を超えて、メシア(救い主)伝承を信じやってきたのでした。ところが、実は賢人はもうひとりいたという伝承があります。幻の4人目の賢人「アルタバン」です。彼は待ち合わせの場所であるボルシッパの丘に急ぐ途中行き倒れの病人に出会います。医者であった彼は見過ごすことができず助けてしまい約束の日時に遅れます。おまけに旅費をすっかりその病人に使ってしまいました。そこでイエスさまに差し上げるはずの貢物である3つの宝石「サファイア、ルビー、真珠」のうちサファイアを、砂漠を越えるためのキャラバン費用に使うことにしました。
やっとイエスさまの誕生の地ベツレヘムの町についたところ、昔の王ダビデの家系にユダヤの救い主が生まれたという噂に嫉妬した狂気のヘロデ王から「ベツレヘムいる2歳以下の全ての男の子を殺せ」という命令が下されていました。アルタバンに救いを求めてきたある母と幼子を兵士から守るため、もう一つの宝石ルビーを使ってしまいます。彼はエジプトに難を逃れたイエスさま聖家族を追いかけますが、その後30年以上お会いすることができません。加齢に加え、無償の医療奉仕を続けていた彼は心臓を病んでいました。
そして、やっとイエスさまの噂を聞きエルサレムに上京すれば、イエスさまが十字架刑で処刑されると聞きます。彼は最後に残った、宝石である真珠を手に握りしめ、「これで、処刑だけは勘弁してもらえるかも」とよろよろになりながら人ごみを歩きます。突然「アルタバーン、助けて~」少女の叫びが聞えました。助けを求める娘に訳を聞きました。昔の友人の娘でした。「父の船が難破して全財産を失いました。父も死にました。私は借金のため売られてしまいます」アルタバンは言いました。「泣かなくていい。この真珠を渡しなさい」アルタバンは最後の贈り物である真珠をその娘を助けるため使ってしまったのです。
その時でした、ゴルゴタの丘(イエスさまの処刑場)から雷鳴が轟いてきました。イエスさまが息絶えたのでした。「あぁ、とうとう私は救い主にお会いすることができなかった。33年間追いかけ、追いかけそして3つの贈り物もお渡しできなかった。何のための旅であったのか」アルタバンは失意の中で息を引き取ろうとしていました。
そのときです。声が聞こえてきました。「アルタバン、アルタバンあなたの贈り物は、すべて受け取っている」「主よ、あなたですか。わたしは、あなたに何一つお贈りすることができなかったのです。主よお許しください」「いや、すべてを受け取っている。ボルシッパの丘で病に伏したとき、ベツレヘムの町で迫害に会ったとき、そして、破産して娘が売られようとしたときです。『わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい』」アルタバンの目が静かに閉じられていきました。その顔は、確かな満足と喜びに満ち溢れていました。
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・・ 聖句と今月のみことば ・・
「あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。」
新共同訳 フィリピの信徒への手紙 第1章9~10節
この手紙の執筆者と考えられるパウロはこの手紙を迫害の獄中から書かれたものと言われています。
いわゆる「獄中書簡」のひとつです。どこの獄中というと、伝統的には、ローマと言われていますが、距離や交通状況を考えればエフェソというのも有力なところと言われています。書かれた年代はローマ説をとれば紀元60~63年、エフェソ説なら53~57年頃と推定されます。
この手紙全体を通して言えるモチーフは「感謝」とりわけ「喜び」といえます。
フィリピの信徒への手紙を「喜びの手紙」と呼ばれる理由もそこにあります。挨拶のあと1章の前半は信徒のための祈りから始まります。今月の聖句の箇所の意味は、「愛がますます豊かになる」ことはこれが「知る力」と「見抜く力」、言い換えれば「認識」と「洞察」との関連において求められているということです。
つまり、「愛すること」と「知ること」とが堅密に関連し合っている事実が示されています。
「本当に重要なこと」を「知る」ことが、「愛する」ことにつながるのです。