子どもの頃、日曜学校の先生からこのお話を初めて聞いたときすごい衝撃を受けたことを憶えています。目が見えない人が見えるようになりたいと熱望する心と必ずイエスさまなら見えるようにしてくださると信じる信仰の強さからの行動です。
バルテマイという生まれつき視力に障害を持った人がいました。
2000年前、視力に障がいを持った人が生きていくためには恐らくは他人からの施しに頼るしかなかった違いありません。
バルテマイは雑踏の中に耳を澄ましていたのでしょうか。うわさのイエスさまがお出でになっていると聞いて彼はそのチャンスを逃しませんでした。
たぶんイエスさまは歩きながら福音を語られていたのでしょう。人々はバルティマイの声でイエスさまお話が邪魔されたくなかったからでしょうか。なんとか彼を黙らせようとします。
しかし彼にすれば何も持てない絶望的状況の中にやっと見えた希望の機会だったのです。それはもう必死でした。声を限りに叫び続けました。
ついに声はイエスさまに届きます。お弟子さんから「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」彼は躍り上がって喜びながらイエスさまのもとに行きます。しかも、この期に及ぶと恐らくは一枚きりしか持っていなかっただろう上着すら邪魔でした。
脱ぎ捨てています。彼にとってイエスさまのもとに即刻行くことこそ最優先であとはすべてお会いすれば解決すると信じているのです。
見えるようになって帰ってくることを信じていたのでしょうね。「何をしてほしいか」のみ声を聴いたとき、心から答えます「先生、目が見えるようになりたいのです」「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」のみ言葉ですぐ見えるようになりました。
何度読んでも、本当に嬉しいお話です。多くの信仰的学びを今更ながら見えてきます。バルティマイの必死の声を誰も止めることがでませんでした。
信仰的に神さまにすがる思いは単なる憧れや感傷的な願いではありませんでした。そしてイエスさまからのお召しには上着すら邪魔という応答でした。
私たちは神さまからのお召しのいつも即応しているかどうか考えてしまいます。
「このことが解決してから」と大切な機会を失ってはいないでしょうか。
彼は自分の求めをしっかりもっていました。「見えるようになりたい」非常に具体的です。
最後に、彼は望みが叶ったあと、「行きなさい」と言われているにも拘らず「なお道を進まれるイエスに従った」と聖書は記しています。
人の施ししか頼りが無かった彼ではありましたが、心から神さまに感謝する信仰を持っていました。自分の求めを叶えてくださった後、残りの人生全てを神さまへの忠誠に終わっています。
多くのお弟子たちの招命の中で、また一つ、イエスさまの弟子としてのすばらしい姿をここに見ることができます。