園長先生のコラム

コラム 【 2021年5月号 】 「 自分を空しくすること 」

 大学の講義が2年ぶりに対面授業で開始されました。そして今年で最後の年となりました。10年教壇に立った金城学院大学も定年です。毎年特に小学校や幼稚園の先生を目指している「現代こども学科」の学生にお話しすることがあります。

 それは幼い子どもを教育するということはつまりは「子どもを愛すること」であり愛すると言うことは難しいことなのですが「自分を空しくすること」なのです。

 僕の卒業した神学校(牧師になるための学校)は日本最初の米国聖公会から宣教師ウイリアムス主教の名をいただいたウイリアムス神学館といいます。ウイリアムス主教の生涯をかけての遺志は「道を教えて、己を伝えず」です。彼は徹底して自分と言うものを前面には出さず真理だけを人々に伝えたようです。彼の研究者たちは彼の残した資料の少なさに困ってしまうほどです。立教大学や多くの学校を設立したり、病院や福祉に係る多くの実績があるにも関わらず自分のことを後世にほとんど名を遺していないからです。

 北欧の幼稚園の教員の給与は、大学教員の給与とほぼ同じということが法律で定められていると聞いたことがあります。真偽はともかく教育と言う職業にそれほど上級学校と下級学校の差別がないということなのでしょうね。一つはまさにキリスト教教育の根幹をなす「愛の実践」から来る思想なのかも知れません。「教えること」には愛が不可欠です。特に見返りの伴わない愛こそ必要です。そのようなわけで幼稚園の先生は尊い職業と考えています。もとより職業に貴賤はありません。しかし敢えて教員という立場で考えるならば上級学校たとえば大学などでは教え子が社会で活躍するのを教授は見ることがあり教え子たちも先生のおかげと感謝することできます。

 幼稚園の先生は教え子たちが自分で何もできなかった幼児期に人として何が一番大切なことか何が美しいことか何がいけないことかを教えたにも拘らず教え子の未来だけを信じて園を去っていくのです。

 40年の幼稚園園長生活でたくさんの教職員との出会いそして別れがありました。主任教諭は11人の先生でした。その中の多くの先生は僕を育ててくださった主任の先生たちです。もちろん半数の先生たちはすでにこの世を去られています。

 そしてこの度僕と一番長い10年間も同じ聖ヤコブ幼稚園で主任教諭として勤めを果たされた智子先生が退職されます。

 キリスト教主義幼稚園の先生らしく「己を空しくして主に仕え、生涯清き行いをもって主の栄光あらわす」生き方をなさる先生としてこれからもご活躍されることを祈ります。

 以上のようなわけで結果的には突然の退職発表となりました。さらにコロナ禍の中でありますので送別感謝会なども差し控えることにしました。

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