今年6月で64歳になりました。自分がこのような年齢にまでになるとは。
頭では分かっていても、実感としてはピンと来ていません。
思い返せば無駄に動き回った30代、不惑どころか迷いに迷った40代、生活習慣の乱れからそろそろ身体のあちこち不調になった50代でした。
それでも、新しい考え方や器械に興味を持つ性格(少しおっちょこちょい)からか、色んなメディアからのニュースが好きで「へ~そうなんだ、そんなことが出来る時代なんだ」とか「そこまで、解ったんだ。すごい発見だなぁ」とか勉強になることが多いこの頃です。ちなみに携帯電話はまだ未だにガラケー(ガラパゴス携帯)です。
でも、タブレットは別に携帯して外出しているのでラインは使えます。メールやインターネットその他のアプリも結構使えています。
2年前よりは少し時代に近づいていますかね。ただスマホはもう使うのは無理かもと思っています。だって、余りに小さすぎて文字が見えにくく、画面タッチがし辛いですからね。
先日、日本聖公会 京都教区(津聖ヤコブ教会の所属する教区)と大阪教区の合同の教役者会(聖職と伝道師、聖職候補生)を、三重伝道区がホストとなって伊勢にて2泊3日の研修会を開催しました。
気がつけば、先輩がほとんど居なくなっていました。でも、「もう数年もすれば僕も現役ではなくなって、ここにいないのだろうなぁ」なんて考えていました。
昨年、神学校時代の教授や恩師の先生をすべて天にお送りしたことを思い出し「自分は先達者の先生方の教えを伝えているのだろうか?」と反省することしきりでした。
ただ、言えることは「今解らずとも後知る」とはよく言ったもので、60歳を超えてから「そういえば、自分が若いとき先生が言っていたなぁ」というようなことを近頃よく思い出し、今更ながら再理解するようなことがあります。
時代についていくことも大切なのですが、人生の先輩として教えていただいたことにもう一度耳を傾けることの重要さを思います。
仕事を渡してゆく、任務を渡してゆく、伝統を継承してもらうこと、つまりは「新しい酒は新しい皮袋に」(マタイによる福音書9:17)そのような年代にそろそろ入って来たのだろうと考えます。
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・・ 年主題聖句 ・・
「あなたがたは神に愛されている子どもです。」
~エフェソ 5章1節~
「天上天下唯我独尊」という言葉があります。
「天に於いても地においても私という存在は独りであるがゆえに尊い存在である」という意味です。どんなに辛いとき寂しいときでさえも自分は神さまに愛されている存在、神さまの子どもとして生かされていると信じたいものです。
・・ 聖句と今月のみことば ・・
「天よ、喜び祝え、地よ、喜び躍れ/海とそこに満ちるものよ、とどろけ」
~詩篇96編11節~
バビロン捕囚期の預言者エレミヤやエゼキエルにも見られる新しい契約(神さまとの契約)のビジョンが見られる躍動感ある締めくくりの言葉です。神さまとの新しい契約のためにはメシア(キリスト)の到来が必要なのです。クリスマスの聖句として有名な箇所です。